教会の歴史

戦争の傷跡 ~1945(昭和20)年3月19日焼夷弾落下による

 この椅子の座板には、太平洋戦争中の空爆による傷跡が当時のまま残されています。 アメリカ軍の戦略爆撃機B29による夜間空襲の際、熱田地区に多数、投下された油脂焼夷弾1個は屋根から床下まで突き抜けました。 幸いことなきを得たのは大きな感謝です。

会堂椅子の座板

熱田教会のルーツをたどる

加藤久雄(元熱田教会牧師)

1 美普(ミフ)教会の歴史

 熱田教会の歴史は『米国メソジスト・プロテスタント教会』の伝道により始まります。『メソジスト(美)・プロテスト(普)』を略して『美普教会』と称します。

 1880(明治13)年に来日して、東京から四日市までの東海道沿線に伝道し、教会を建て、特に学校教育に力を注ぎ、横浜に「女子英和学校(成美学院)」・名古屋に「男子英和学校(名古屋学院)」が創設されています。

 名古屋は『美普教会』による伝道の拠点となり、「英和学校」の創設と共に、「名古屋第一美普教会(広路教会)」、「名古屋第二美普教会(中京教会)」、「名古屋第三美普教会(熱田教会)」と三つの教会が誕生しています。

2 名古屋第三美普教会

 熱田教会の源流を遡りますと、二つの教会が合流しております。

その一つが『名古屋第三美普教会』です。1905(明38)年、東本願寺別院の門前町の橘町に『橘町講義所』として開設されています。ここは、明治20年頃から長老派の宣教師が伝道した場所でしたが伝道困難のため、放棄されるのをモルフィ宣教師が譲り受けたのでした。モルフィ宣教師は名古屋における廃娼運動の先駆けともなった気骨ある人物でした。

 この『橘町講義所』で、田中証さんが三人の娘(井上すえ・藤川しげ・牧こと)と共に、明治41年に受洗されます。証さんが夫に先立たれ、6人の子を抱え、希望を失った時、実兄村井与三吉氏の勧めによって導かれたのでした。村井与三吉氏は北設楽郡津具村で自給伝道し、村人に深い感化を与えた方で、賀川豊彦氏の著書「一粒の麦」のモデルになった人物です。現在津具村に「村井与三吉顕彰碑」が建てられています。

 『橘町講義所』は教会組織して『名古屋南部教会』となり、さらに『名古屋第三美普教会』となりました。田中証・藤川豊・藤川しげ・牧ことさんらは、この時代からの信徒でした。

3 熱田美普教会 

 熱田教会のもう一つの源流に『熱田美普教会』があります。1912(明治45)年、熱田神宮の門前町、神宮の南門から「宮の渡し」に赴く場所、市場町に『熱田講義所』が発足しています。この場所も、アライアンス教会の開拓伝道地であったのを、美普教会が譲り受けたのでした。奇しくも 『橘町講義所』が、仏教本願寺の門前町に、『熱田講義所』が神道の熱田神宮の門前町に、伝道困難な地に伝道の拠点を築いています。

『熱田講義所』は大正11年に教会組織して『熱田美普教会』となり、本間常次郎牧師が大正7年から牧師として在任されました。本間牧師は俳句の宗匠として、風格もあり、大柄な人柄でした。この教会の信徒として、桜井伊助・服部朝太郎・東根俊一・牧福松氏等がおられ、貝沼捷二氏は牧師となり、後年横浜の蒔田教会を牧されました。

4 日本美普熱田教会

 『名古屋第三美普教会』と『熱田美普教会』が合同して『日本美普熱田教会』となったのは、1930(昭和5)年でした。

 熱田区玉の井町の現在地には、既に『堅磐信誠幼稚園』が存在しました。その敷地の一角に、立派な礼拝堂が建設されました。オービー宣教師の設計になる建物です。南側の2階部分だけ模様替えしていますが、大部分は昭和5年の献堂のままです。昭和19年の空襲で焼夷弾が落下し、天井を破り、椅子を貫き、床下まで達しましたが、高橋牧師一家の懸命な消火活動で奇跡的に守られました。

 合同して、伊藤与雄牧師が3年間在任されました。かなり気質の異なった2教会の信徒を、温厚篤実な伊藤牧師は、よく訪問し、信仰的に育てられました。当時の礼拝出席者は、朝拝30名、夕拝12名位でした。 

 昭和8年から16年までの8年間、松永徳次郎牧師が在任されました。松永牧師は中京教会の出身、野人的人柄で軍籍もありました。牧師をされながら、愛工・明倫中学の配属将校もされ、生徒に戦争に出るだけが国に奉公の道ではないと語り、軍の参謀に絞られたこともありました。松永牧師の時代、ミッションからの援助をなくして教会は自給体制になりました。松永牧師の子息希久夫氏も牧師となり、後に東京神学大学長を勤められました。

5 日本基督教団熱田教会

 日本は軍部の力が強力になり、満州事変・日支事変、そして1941(昭和16)年12月8日、ハワイの真珠湾を攻撃し、世界戦争へと突入しました。キリスト教会への弾圧も次第に厳しくなりました。

 このような状況の中で、日本における新教の諸教派(30余派)は合同して、1941(昭和16)年6月『日本基督教団』が創設されました。『美普教会』も、この合同に参加して『教団』に属し、『熱田美普教会』は『日本基督教団熱田教会』となりました。これまで『美普教会』において牧師は、「任命制」でしたが、『教団』においては「招聘制」となりました。

 松永牧師が昭和16年4月に中京教会に移られて、熱田教会に草間信雄牧師が任命されましたが、赴任後荷を解く暇もなく、応召され無牧になりました。

 昭和17年4月から、伊勢原教会の牧師であった高橋秋蔵牧師が来任されました。当時52歳、郷里伝道に専心努力し、私財を捧げて会堂も建設されました。その伊勢原から、戦火の次第に激しくなる名古屋へ、決意を新たにしての赴任であったと思われます。高橋牧師はホーリネスの神学校に学び、霊性を重んじ祈りの人でした。『エホバ・エレ』(神備え給う)の信仰に生きた人でした。

 昭和17年から20年までの3年間は、戦局が次第に悪化し教会への弾圧も強化され、特高刑事が監視し、空襲の被害に見舞われ、牧師家族と数人の信者で礼拝を守った時代でした。


6 戦後の10年

 1945(昭和20)年8月15日、戦争は終結し日本は敗戦しました。人々の心は虚脱状態でした。しかし廃墟の中から、心の拠り所、道を求めてキリスト教会の門を叩く者も少なくありませんでした。熱田教会も日曜日の礼拝・夕拝のほか、祈祷会、週2回の求道者会が開かれ、集まった青年達と聖書を学び、福音が伝えられました。

 礼拝の出席者は、昭和21年=25名、22年=40名、23年=70名と増加しています。各企業会社で「職場聖書研究会」が開かれました、高橋牧師も、日本車両、大同製鋼、住友金属などに講師として招かれました。この集まりから、教会に出席し、入信する者が続きました。

 山田忠牧師は、大同製鋼に勤務していましたが、「職場聖書研究会」から導かれ入信し、昭和24年に神学校に入学、伝道者としての道を歩みました。

 篠田潔牧師は、住友金属の「聖書研究会」から導かれ入信し、昭和25年に神学校に入学しました。

 加藤久雄牧師は「求道者会」から導かれ入信し、昭和26年に神学校に入学、2年に編入のため篠田牧師と同級になりました。

 半田教会も美普教会の伝道によって建てられた教会ですが、戦時中会堂は強制疎開で取り壊され、信徒も散逸しました。戦後、篤信の盲目の信徒の穂積圭吾氏宅で礼拝が守られました。昭和26年から31年までの5年間、高橋秋蔵牧師が代務者となり、毎日曜日の午後、半田の穂積氏宅まで赴いて礼拝を守りました。

 昭和31年、篠田潔氏が神学校を卒業し、半田教会に迎えられ、隠退までの40余年、1教会に奉仕されました。

7 それからの50年

 1956(昭和31)年、加藤久雄牧師が、高橋牧師の下、伝道師として迎えられ、3年後主任牧師となり、35年在任し、65歳にて辞任し、田原吉胡伝道所に移りました。

 長谷川洋介牧師が9年間在任、沖縄の上地教会に転任されました。

 竹前治牧師が6年3か月在任、東和歌山教会に転任、無牧の9か月の後、2005年4月より、小林光牧師が萩教会から来任されました。

8 歴史を顧みて

 熱田教会の歴史を顧みて思いますことは、先人たちは、仏教と神道の強い地盤の土地に、「講義所」を建て、福音を伝え続けられました。伝道への情熱と、堅固な信仰の地道な努力の継続を深く思います。また同時に、他宗教・文化への関わりの仕方も考えさせられます。日本という土壌の中で、どのように福音を伝えてゆくかは、大きな課題であります。

 100年の歴史、時代の風は厳しいものでした。戦争体験、戦後の苦しみの中で道を求めた時代、そして今、豊かさの中での空虚さ、教会に託された使命の重さを深く思います。

 信者の一人一人が、福音の喜びに満たされ、与えられた人生の時を感謝して、力強く歩むことが大切かと思います。

 「耕岩播種」、岩を耕し、土にまでする努力・労苦・忍耐が必要です。しかし「福音の種」は、豊かな生命力をもって成長し、耕す者は、その命を体験して行くのです。信仰者は奇蹟を体験しつつ生きる者だと、私は思っています。